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 只でさえ好きじゃない化粧が、湿気のせいで更に手間が掛かる。
 完璧にした所でどうせ外に出れば満員のバスと電車で崩れるんだ、休日の貴重な時間を使ってアイロンまで掛けた服だって汚れるだろうし、人混みの中に紛れれば再びしわが付くのだろう。
 私は、雨の日が大嫌いだ。

 恨みがましく窓から降り止まぬ雨を見上げ、ふっと溜息を一つ。
 そういえばあの日も、こんな不快な大雨で一日が始まったのだった――。


 ――高校時代の私は、事あるごとにどうやったら学校に行かずに済むだろう、と考えるような人間だった。
 嫌々通学路を歩いてれば、なんの変哲もないコンビニが酷く魅力的に見えて時間も気にせず立ち寄りたくなる、空を見上げれば何処か遠くへ行けないかと夢想し始める、電車に乗れば一駅と言わず何駅でも乗り過ごしてしまえと画策し始める、そんな人間だった。
 だけど生憎それらを実行する度胸はなく、何時も妄想で終わっていた。
 大雨のこの日も例外でなく、なんとかこの状況を利用して、少しでも遅くより遅く学校に辿り付けないかなどと考えていた、そんな通学途中の出来事だった。

「きゃっ!」

 私の家の近所は住宅街で道幅も狭い、だからこんな風に車による水しぶきを受けるのも、そんな珍しい事じゃないのだろう。
 びしょ濡れの制服、非常に心地悪い肌触り、だけどそんな状況も私はある意味で前向きに捉えていた。

(家で制服乾かしていたら、遅れました――うん、使える)

 全身水浸しなのににやけている私の顔、知り合いが見たらどんな風に映るだろう。
 踵を返して家に戻ろうとする私、そうしたら背後から、今にも消え入りそうな声が聞こえて来た。

「あ、あの……」
「きゃっ!」

 周りに誰も居ないと思ってたからにやけられたのに、近くに人が居たなんて。
 いきなり声を掛けられた事と相まって、私は瞬間驚きの声を上げてしまった。

「あ、すみません……」

 未だばくばくと強く脈打ってる心臓、振り返って声の主を見てみれば、細面でおどおどしてて、ちょっと繊細そうな青年が立っていた。

「何……ですか?」
「いえ、あの……」

 声を掛けてきたのは自分なのに、もじもじしててなかなか要件を言ってくれない。
 尤も、出来うる限り学校に行く時間を遅らせたい私にとって、それは好都合だったのかもしれないが。
 青年の目は泳いでて、顔も真っ赤で。 そんな様を見てるのは別に苦痛ではなかったのだが、べた付いた制服の不快な肌触りのせいでなかなか言い出せない青年に痺れを切

らしてしまった。 

「何……?」

 急かせば案の定、動揺し更に目を泳がせる青年。
 ――もう私もこの場で立ち去れば良かったのだろうに、そうすればこれから起こる出来事に巻き込まれずに済んだのに。
 私はそれでも彼の意思は何なのか、待ち続けてしまった、学校に出来る限り遅れる為に、現実を遠ざける為に。
 するとやっと意を決したのか、漸く彼が自分の意志を吐き出してくれた。

「ふ、服濡れちゃったなら、乾かしていきませんか? 家、近くなんで!――」


 ――まさかこんな事で人生初めての男性の部屋にお邪魔する事になろうとは。
 勿論、警戒しない筈が無かった、事実最初は断ろうと思っていた。
 だけど青年なりの必死の訴えと、前提となる青年の気弱な性格、何より学校から出来るだけ逃れたいという思いから、結局付いて来てしまった私。
 実家だと言うのも要因の一つだ、多少古惚けて生活臭のある住宅、危険とは無縁そうな門構えにふらふらと立ち入ってしまった。

「あ、そこがシャワーで……お、男物ですけど、乾かしてる間はこれ着て待っててください」

 自分の家なのに酷く低姿勢な青年、ちょっと申し訳無くなる。
 シャワーを浴びている最中、警戒する事さえ失礼だったかな、とさえ思い出した私、シャワーから出ればさっきまでとは打って変わって青年に打ち解けようと努める私だった。

「家の人は?」
「両親とも仕事で……この時間は、僕だけ、家に」
「ふーん、普段は何やってんですか?」 
「い、一応学生だけど……」
「大学生?」
「うん……」

 相変わらずぼそぼそした声、私の目を見ようともしない。
 青年がそんな様だったからだろう、押されれば引く、引かれれば押すという人間心理で、私は更に馴れ馴れしく彼に突っかかっていった。

「大学って楽しい?」
「いえ……」
「やっぱつまんないのかー」
「……人に、寄るんじゃないですかね?」
「どうだろ。 私は学校嫌いだからー」

 『学校嫌いだから』。
 私がそう言うと青年の瞳に光が点ったように見えた。
 
「学校、嫌いなんですか?」
「うん。 だから実は、制服びしょ濡れになってちょっとラッキー、みたいな」
「はは、実は僕も学校嫌いなんですよ、大嫌い」
「へー、仲間だ!」
「仲間ですね!」

 親近感が湧いた私達は、それから弾むトーンで様々な会話を交わしていった。
 私の方は級友が合わないだとか、教師が合わないだとか、授業がつまらないだとか、ありきたりな不満を。
 青年の方も私に付き合わされるよう、自分の置かれた状態を徐々にだけど話し始めてくれた。
 どうやら――色々あって今は大学に通っていないみたいで、私よりも数段上の段階で学校が『嫌い』なのだと、理解した。

「学校なんてものは、消えてなくなればいいんだ。 そう、思いません?」
「うん、あんなもん消えちゃえばいいんだ!」

 今考えれば青年が放ったこの言葉は、少なくとも私の言葉なんかより数十倍は重いものだったのかもしれない。
 だのに当時の私は、そんな自分との違和感を感じ取る事も出来なかった、青年がその言葉の裏に、どんな思いを乗せていたのか、まるで考え付きもしなかったのだ。
 同じ気持ちだと思っていた、だからふふっと笑い合った、だけど――。
 
「なあ……いい、だろ……?」 

 途端、今までの和やかな雰囲気を自ら壊して、私に迫ってくる青年。
 口づけをせがまれた、あまりに急な出来事だったにも関わらず、私は咄嗟に交わし、すぐさま悲鳴を上げた。

「きゃっ!!!」
「学校なんて、社会なんてもうどうでもいいだろ? なあ、何もかも忘れて、一つになろうよ? な?」

 かわされたものの挫ける様子なく迫ってくる青年、その表情はさっきまでの控えめで弱弱しい印象もすっかり消え失せていた。
 この時――初めて自分が愚かしい事をしたのだと理解した、例えどんな男性であろうと、警戒を解いてはならなかったのだ、女一人でのこのこと見知らぬ男の家などに、上がりこむべきではなかったのだ。

「ちょ、本当嫌! だめ!」  
「頼むよ、お願いだから……」

 青年の言葉に耳を傾けてる余裕はない、私は必死の思いで玄関を目指した。
 掴みかかってくる青年の腕を抓り、怯ませ、何とか外まで逃げ遂せた矢先――青年の最後の言葉が、私の耳に突き刺さってきた。

「お願いだから、もう一人ぼっちにさせないでくれよ……」

 靴も満足に履けない私、自分の制服も置き去りにして、顔中雨か涙か解らぬもので濡らして、自分の家まで辿りついた――。


 ――後日、私宛に差出人不明の小包が届いてきた、中身は、あの日置き去りにした高校指定の夏服だった。
 きちんとクリーニングされてるものの、もう着る気は起きない、起きる筈がない。
 箱の底に「ごめんなさい」と一文だけ書かれた便箋が入っていたが、それもびりびりと破り捨てた。
 あの日の過ちはこれで全て終わったのだ、釈然とはしないが、もうこれで忘れられると思っていた、だけど――それだけでは終わらなかった。

 その日の晩御飯、やけに騒がしい家の外。
 けたたましく鳴るパトカーのサイレンと、野次馬と思われる人の声。
 この時既に嫌な予感を抱いていた。

「――ただいま」
「おかえりなさいあなた、外騒がしいですけど、何かあったのかしら?」
「ああ、なんでも自殺らしい」

 自殺――。
 私は悟られぬよう両親の会話に強く耳を傾けた。

「自殺? どこの方が?」
「○○さんの所の、息子さんだそうだ。 なんでもずっと学校休んでて、引き篭もりがちだったみたいで……」

 ○○という苗字は、今も深く胸の奥に刻まれている――そう、あの青年の家の表札に掲げられていた苗字だった。
 途端、私は急激な吐き気を催し、晩御飯もろくに手をつけられないまま、自分の部屋へと引き返したのだった。

 
 ――あの青年が一体、心の奥底でどんな事に悩み、どんな鬱憤を抱えていたのか最早知る由もない。
 元々あの時が初対面だったし、以降も交流なければ私が思い悩む義理もないのだろうけど、この時の事を思い出すと今でも酷く陰鬱になる。
 仮にあの時、慰みに体を許せば、彼は生き長らえたとでも言うのだろうか、仮にあの時、拒否したから自ら命を絶ったと言うのだろうか。
 原因は他にもいくらでもあったのだろう、だけどきっかけを与えてしまったのは、多分私なのだろう、そう思えば思うほど、ずっしりと体が重たくなる。

 私は雨の日が大嫌いだ。
 雨に濡れれば身だけでなく、心までも重たくさせる、どうにもならない記憶が、未だ私の心を締め付けてくる。
 とは思っていても、今や曲がりなりにも社会人、どんなに嫌でも私は、今日も会社に行かなければならない。

 私は雨の日が嫌いだ、大嫌いだ――。
 そう心の中で呟きながら、湿気の酷い不快な満員バスに今日も揺られる私だった。

 

 

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